紀州漆器の町「黒江」
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漆器の町のよもやま話
海南市の郷土史家、故雑賀紀光さんのおもしろいむかし話をご紹介します。
筆者紹介 | 雑賀紀光 日本美術家連盟会員・ (元)黒江漆器意匠会々長・ 海南市の郷土史家 故人 |
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黒江とは漆器にふさわしい地名である。その由来は続風土記によると「此地は古、海の入り江にて其の干潟の中に牛に似たる黒き石あり、満潮には隠れ干潮には顕る。因りて黒牛潟と呼ぶ黒江は黒牛江の略語なり」とある。
万葉の昔からその風光が都人に賞でられ、黒牛の海紅(くれない)にほふももしきの大宮人し漁(あさ)りすらしも 黒牛潟潮干の浦を紅の玉裳裾引き行くは誰が妻 他一首 古に妹とわが見しぬばたまの黒牛潟を見ればさぶしも |
の三首が万葉集にのせられている。
この牛に似た岩は何時のころからか埋没してしまって今その辺は黒牛という地名として残っている。
黒江の町は大きく分けて、黒江と船尾が主部をなしているが、船尾という地名は、紀伊国名所図解に「元享年中(六六○年程前)和泉国大島郷船尾村より此に引来り開基する」と出ている。
黒江、船尾はさらに小さい字にわかれていて、それぞれにその名称の由来がある。西の方から拾っていくと、海岸の砂石ことごとく紫と緑で歩くと琴の音がするので琴の浦。温山荘のある一帯は矢竹が生い茂っていたので矢の嶋。黒江小学校、海南一中のある辺は河内の国の人がここに来て塩田を開いたので河内浜。それから東へ水路があったが大正年間に川幅をせばめ暗渠を作って覆ってしまったので、川がないのに川端通りという。通りの南側は南ノ浜、北側は西ノ浜と呼ばれているのは、この辺、元は海辺であった名残りである。
池崎、六軒浜など町の中にありながら、海岸の名のついているところが多い。
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